【瀬戸内/しまなみ Setouchi/Shimanami】感動のある隠れ家的スポット宮崎

瀬戸内/しまなみの津々浦々には、地元に住む人間でさえも、ときに癒され、あるいは驚かされ、ときに心揺さぶられ、あるいは静かに感動させられる何かがある。海賊の支配した海は、やがて塩を生み出し、船が作られるようになり、橋がかけられて、今にいたる。波止浜から波方・宮崎まで、海の歴史がぎゅっとつまったトリップを楽しもう。

【Discover the history of Japanese pirates and beautiful sunset  in the Setouchi Inland Sea!】

Shimanami Kaido is the 60km highway between Imabari in Ehime and Onomichi in Hiroshima. It has 9 bridges over the sea and very popular among the world especially for cyclists. You can walk on bridges through “the blue world” between the sky and the sea.

来島海峡大橋で”青のなか”を歩く

しまなみ海道は、すべての橋を自転車、原付、そして徒歩でも渡ることができる。

来島海峡大橋へ上る道路では、波止浜港とそこに集う造船所を見ながら高さ65mの橋へと上っていく。

ドックのクレーンが建ち並ぶ横に、来島海峡大橋へと上っていく道が通っている。
波止浜港と、造船所群。ここで、世界の海へ旅立っていく船が作られる。

橋の上は、世界中のサイクリストを魅了する海上からの景色。空と海、青のグラデーションのなかで島並も青みがかって見え、海風に吹かれれば体も透明感のある青に染まっていくよう。

集落の見える島は、小島。

車では何度も通ったことのあるしまなみ海道だが、歩くのは初めて。車窓からでも、いつも見とれてしまう景色がより近く、体感できる。車で近くまでアクセスできるので、サイクリングで駆け抜けるほど体力に自信がなくても、橋の上を歩いてみるのはおすすめ。

■しまなみ海道の「自転車歩行者道」については、本州四国連絡高速道路株式会社HPをチェックhttps://www.jb-honshi.co.jp/customer_index/guide/zihodo/

橋を下からゆっくり見られるのも、徒歩やサイクリングならでは。見える島は馬島。「あれが●●島かいね」「ちがう●島やがね、こっちが●●島よ」などの会話は、今治では気候並みの話題、かも?

海の向こうを見つめてきた町・波止浜

来島海峡SA、あるいは今治北インターチェンジから車で10分走ると、波止浜港に着く。来島海峡大橋の上から見た、造船所群のある港だ。

波止浜湾は、造船所のある港からさらに深く陸地に入り込んでいる。このあたりはかつて遠浅の海だったことから、塩田に利用され、愛媛で最も古く入浜塩田が作られた地でもある。

塩田の技術は、江戸中期に竹原で学んだ長谷部九兵衛により伝えられた。その後増設が繰り返され大塩田となって、この利益により、町は大いに栄えた。昭和25年、流下式に改造され、世代によっては、この一帯に流下式塩田が広がった光景を覚えている、という。

そんな波止浜塩田の祖である長谷部九兵衛らが、塩田の無事完成と繁栄を祈願して、八大龍神を勧請したのが龍神社。その鳥居は、細長く陸地に入り込んだ湾の中にあり、それはちょっと珍しい姿だ。

潮の満ち引きのあとが鳥居にきざまれていて、どこまで海面につかっているのかわかりにくく、だまし絵のよう。

龍神社から波止浜港への道沿いには、塩田を経営する家に生まれ、明治から昭和初期にかけて、塩や魚介類の貿易で巨万の富を成した八木亀三郎の屋敷も。

八木亀三郎の旧邸。奥に見える森が龍神社。
波止浜港に建つ燈明台(江戸時代の和式灯台)にも「八木亀三郎」の文字がきざまれている

港から5分で急流を天然の要害とした来島城跡へ

波止浜湾の入口近くに、陸地から泳いで渡れそうな距離でありつつも、周囲は来島瀬戸の急な潮流である「来島」がある。

中世(鎌倉時代~安土桃山時代)の瀬戸内海は、海の難所を高い操船技術で海賊が跋扈する海だった。甘崎、能島、そして来島などには海賊の基地が築かれ、それらは島全体を城郭とする「海城」となっていった。

能島はこちらの記事で紹介

かつては、すぐそこに見えていても、決して立ち入れなかったであろう来島は、現在は波止浜港から約5分で上陸することができる。

海賊の縄張りへ……
船から見る造船所

じつは、このとき来島への上陸時間は、わずか10分。というのも、波止浜港からは、来島、小島、馬島と寄港し、同じルートを引き返してくる船便があるのだが、ちょうど乗船した時刻の船便は、小島に寄ると引き返してくる便だったためだ。

■渡船 波止浜港~来島~小島~馬島の時刻表は今治市HPへ https://www.city.imabari.ehime.jp/kanko/access/kurushima.pdf

あそこに来島が見え、そこに船が来たから乗ってみた、という感じだったのであわただしい上陸となったけれど、次はもう少しゆっくりと島を見てみたい。

浜辺のない海沿いぎりぎりに建物がある光景は、やっぱり見慣れない感じがする

周囲850mという小さな島は、全体が村上水軍の築いた海城である来島城跡。渡船が到着した南岸は民家が数軒と、来島城の守護神として建立された八千矛神社がある。北側は絶壁で岩礁には、多数の築城遺構である柱穴が残る。

10分経って、帰りの船。潮流が、川のよう。左奥に見えるのが波方港へと至る愛媛県道38号線。

海賊も潜んだ隠れ家的な波方の浜へ

波方は、文字通り、”波の方”に突き出している。波といっても、普通の波ではなく、複雑で急な潮流。いかにも、海賊が好みそうな場所で、平安時代に編纂された国史『三代実録』には、伊予国宮崎村に海賊が群集掠奪する貞観9年(867)の記事が載っている。

海賊たちは、眼前の海の難所を船を巧みに操り、追走されたときに避難し、沖を通りかかった船を襲撃した。

16世紀以降は、来島村上氏も、対岸の波方浦を中心とする「波方城砦群」を築き、根城を来島から波方に移した。

そんな波方では、今でも海運業が盛ん。波止浜と同じく、いつの時代も海へと乗り出していく土地なのだ。

波方港に現在は船便はないが、以前は竹原とを結ぶ便があった。竹原を訪れたとき、地元の方に「今治の人とは昔から交流がさかん」と言っていただいたことがある。”それは因縁ではなく?”と、心の内で尋ねてしまった。長谷部九兵衛は、門外不出とされた塩田の技術を持ち帰ったというけれど……。

食事処では、お料理の上にちょこんと載った穴子を見て、「もしかして、お雑煮に穴子を入れませんか?」と思わず尋ねた。わが家のお雑煮には、まさに出されたお料理と同じ様子で、穴子がちょこんと載っているが、地元ではあまりそんな食習慣は聞いたことがなかったのだ。

すると、「はい、入れますよ」と。竹原から先祖が持ち帰った習慣らしい。今治と竹原、きっと良い縁があるのだろう、と思うことにした。

御崎神社の鳥居から七五三ヶ浦へ

古代から海賊が根城としていた宮崎には、海に鳥居が立つ美しい光景がある。

鳥居の背後に見える崖の上には、来島の村上氏が築いた城砦群のひとつ御崎砦があった。この鳥居は、そこにある御崎神社の鳥居だ。

海賊もふだんはこの浦で、日々の生活をのんびりと送ったのだろうか

御崎神社のたつ崖の向こうは、梶取鼻との間に入江があり、七五三ヶ浦というのどかな浜がある。ただでさえ、狭い道路が通行止だったこともあり、これまでそこへたどり着いたのは一度だけ。(御崎神社へは未だ行ったことがない)

岩を波が穿って、天然のトンネルができている。
向こうに見えるのは梶取鼻。海賊の幻でも見えてきそうな、海賊が根城とするのにうってつけ(?)の地形。

七五三ヶ浦には、縄文時代から人の住んだ遺跡がある。藩政時代には、梶取鼻では航路を示すために、白い石の塔に煙があげられ、夜は狼火をあげていたという。

いつの世も人の営みがあったにもかかわらず、きっとこの風景は、古代からほぼ変わってはいないのだろう。こんな風に、ここをきれいに自然に戻して現代に渡した古代からの人々の暮らしが、逆にありありと感じられるのだった。

西浦から見た、梶取鼻の向こうへと沈む夕日。
海山城から見た、波方の夕日。

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です