今治・春の鵜島を歩く 桜の島と潮風に誘われた小さな島探訪 

世界中のサイクリストに愛されるしまなみ海道が走る、瀬戸内海の津々浦々。地元に暮らす私たちでさえ、ときに驚かされ、ときに心を揺さぶられるような風景や出会いがあります。

水軍の海城跡「能島」を、陸地から最も間近に望める「鵜島」での時間は、そんな日々の発見のひとつでした。

これは、2019年の春に訪れた鵜島の記録です。

目の前に広がる絶景に心が躍り、歴史や文化を知るほどに、静かな驚きが深まっていく――そんな島。

ひょんなことからたどり着いたこの小さな島で出会った風景は、今も印象深く、心に残っています。

Discovering Ushima: A Hidden Island in the Seto Inland Sea

The Shimanami Kaidō—beloved by cyclists from around the world—threads its way through the island-dotted Seto Inland Sea.
Even for those who live nearby, these quiet inlets and coastlines hold moments that surprise and stir the heart.

One such place is Ushima, a small island from which the sea fortress of Nōshima can be seen up close.
The views are breathtaking, and the more one learns about the island’s history and culture, the deeper the quiet wonder becomes.

水軍の海城「能島」は急流に守られた神の島

瀬戸内海には無数の島がありますが、伯方島から「船折瀬戸」方面を望むと、他の島々とは”異彩を放つ”ような島に目がとまります。

「船折」の名のとおり、300メートルほどの狭い海峡を約8ノット(時速約15km)の潮流が流れる海の難所に、遠目にも古くから人の手がかけられていることが見て取れる、日本庭園の築島のような小島が浮かんでいるのです。

桜の樹は、その根が島を壊す一因となることから、2022年に伐採された。写真は2019年4月の能島。

この島は、村上水軍のかつての”海城”である「能島(のしま)城跡」(国指定史跡)。

現在、島への定期的な船便はありませんが、島を覆う桜があったころは、満開の時期に、2日間のみ船便がシャトル運航されていたとか。

能島のソメイヨシノが伐採されたのは2022年(令和2年)のこと。能島で雨水による土砂の流出、航跡波による侵食、そして桜の根や落葉による影響で島自体の破壊が進んでいることが懸念されていたためです。

平成31年と令和2年の豪雨では、島の斜面で大規模な地すべりが発生。その影響もあり、令和4年度から始まった「史跡能島城跡保存活用整備工事」の一環として、昭和6年に植えられ、長年親しまれてきた桜の木々は島から姿を消しました。

けれどこの整備は、ただ景観を変えるものではなく、かつての能島城の姿を少しずつ浮かび上がらせる試みでもあります。


島内には、発掘調査で見つかった建物跡や鍛冶遺構の位置に平面表示が施され、案内板や休憩所としての「復元的建物」も設けられる予定とのこと。

島全体が、かつての“海城”としての姿を想像できる場所へと整えられていく――そう思うと、これからの鵜島や能島を訪ねる楽しみが、またひとつ増えたような気がします。

能島の左側に見える島が鵜島。伯方島から

ところで、能島は”神の島”、という記述を以前にどこかで見かけたことがあり、それはその神々しい姿からかと思ってきたのですが、どうも違うらしい。

能島は三方が神によって守られた島であるという

出典:『宮の窪地誌』(宮窪町教育委員会、1985年)

じつは、「神」とは強い潮流のこと。東は能島と鵜島の間に荒神瀬戸、西には能島と宮窪の間に宮窪瀬戸、南にはコウノ瀬、そして北側には船折瀬戸がある、ということだそう。(出典:『宮の窪地誌』)

14世紀~16世紀後半まで「城」として利用され、周囲720mしかない島には、いくつもの郭が築かれて、居住の跡も見られるとか。

能島はきっと、海に浮かぶ大型クルーズ船のような姿だったにちがいない……!(島全体に、みっちりと建物がのっかっているイメージ)

人の営み豊かだった昔の能島は、神々に守られてさぞ活気にあふれていたことだろう、と想いを馳せれば、なんだかそのかつての気配に心がわくわくしてきます。

2023年4月の能島と鵜島。カレイ山展望公園から

能島にいちばん近い島 鵜島へ

気軽な船旅も島の多い瀬戸内海の魅力

じつは、伯方島の尾浦港からふらっと船に乗りこんだとき、私は桜咲く能島へ渡る気でいたのです(2019年のこと)。

しかし、能島には前述のとおり定期的な船便がはなく、到着地の予備知識ゼロで乗った船は、尾浦港から10分で「鵜島」へと到着したのでした。

出典:地理院地図を加工して利用

鵜島へのアクセス:伯方島・尾浦港~鵜島~宮窪をむすぶ船便がある。料金や時刻表については今治市HPにありship_hakata-oshima.pdf (city.imabari.ehime.jp)

上陸した鵜島には、船着き場の近くに外壁がビビッドなピンク色のカフェがある以外は、昔ながらの低い軒が続き、鎮守の森や果樹園など愛媛の田舎らしい風景。

後で、このカフェに立ち寄った際、店員さんから『鵜島風土記』(鵜島歴史民俗研究会編 宮窪町地域活性化推進協議会発行、2015年)をいただきました。

こちらを参考にすると、鵜島は南北約1.5km、東西約0.8kmで面積約0.76平方キロメートル。島の周囲は4kmほどですが、急な潮流のために、集落のある地域以外は岩礁、崖となっています。

船が着いたのは島の南側で、「家の谷」と呼ばれる集落。鵜島には、カフェ以外の商店はなし。郵便局、お寺、そして自動販売機も存在しない!

基幹産業は農業で、意外なことに、漁業を生業にする住民は存在しなかったらしいのです。農船で大島にある畑まで行って農作業をしていた時代もあるのだとか。

目の前に広がる絶景に、急流のスリルで沸く観潮船

港から10分弱、集落を抜けて果樹園横の坂道を登れば、もう海への崖。

坂道の先を左のほうへ曲がると「へらごら見晴らし場」に到着。

ここでは、海へ向かって急こう配の山肌を滑るように降りた記憶があります。

現在の様子は未確認ですが、2019年当時、斜面を下る階段らしきものはあったのですが、ほぼ草に飲まれるか崩れていて……。

勢いよく転がり落ちたりしたら、その先は海で、「荒神瀬戸」の急流がごうごうと流れている状況。

すべる足元に怯えながらも、斜面をなんとか降りたのは、思わぬ近くに能島が見えたからでした。

能島の陸地部分が肉眼で確認できるほど近い。急な潮流も見て取れる。しかし、急斜面にしては柵がちょっと……。

神に守られた海の城跡を眼前にして、その景色に圧倒されていると、ほどなく能島に船が近づいてきました。

観潮船は今治の人気観光アクティビティ。

エンジンを使って急流に逆らい……

エンジンを止めて急流に流されているらしい。

船からは「おおっ」とどよめきが。

船のなかでも驚きの体験中なのでしょうが、そんな船を間近で眺めるのもまた、珍しい体験でした。

潮流体験 能島城跡をめぐる潮流体験については今治市公式ホームページで紹介されています 「能島水軍 潮流体験」(今治市公式ホームページ内)

鵜島と水軍の歴史 

「へらごら見晴らし場」から、砂浜があり、小さな集落のある小浜地区へ。こちらからは能島の隣にちょこんとあり、城の出丸があった「鯛崎島(たいざきじま)」がよく見えました。

小浜地区は数件の家が建つ小さな集落

鯛崎島と能島との間には桟橋がかかっていたといわれ、出丸跡には弁財天がまつられています。

ここからは見られないのですが、島の縁にはお地蔵様があり、これにまつわる民話は、日本財団「海と日本プロジェクト」においてアニメ化されています。

今治市の公式HP→宮窪町の民話「クジラのお礼まいり」のアニメが完成しました | 文化振興課 | 今治市 (city.imabari.ehime.jp)

船の部品らしきものがけん引されている、造船の街らしい景色

鵜島は能島城の水汲み場、船かくし場だったといいます。

荒神瀬戸に向かって突き出した「警固鼻」、能島村上水軍の「造船所跡」があり、地名の由来となったともいわれる船奉行小浜源右衛門の屋敷跡には古井戸が残ります。

「警固鼻見晴番所」。体格のよい人はちょっと登るのがこわいかも……?
鵜島「警固鼻」から見る能島。すぐそこに見えているが、島と島のあいだには荒神瀬戸だ。穏やかに見えて穏やかならぬ瀬戸内海の一面が見られる。
小浜地区の浜辺
島の縁は、大部分がこのような崖。

警固鼻の案内板によれば、岩礁には桟橋の脚穴と思われるものがあり、船を守るための施設があったと推察される、とのこと。

「三島村上氏」と呼ばれた村上水軍は、能島、来島、因島を拠点に活躍し、海賊であるとともに近隣の荘園の所務や海上警固を担って勢力を伸ばしました。

――が、のちに来島村上氏が豊臣秀吉の勢力下に入ると分裂。その後、秀吉が出した海賊禁止令で組織は解体されました。

小浜には造船所があり、能島の軍船や貿易船が作られた、と案内板にある

鵜島のびっくりネタが連発されるカフェ

港へ帰る道中、畑で作業していた女性が「どこから?」と話しかけてくれました。

今治から(旧今治市の意味)と答えると、その女性も今治からで、週に1回、実家の親御さんのもとに通って来ている、とのことでした。

その後、ピンクの「鵜島カフェ」で親御さんとともにいらしていた女性と再会。お店の方含め、地元の方々とお話しする機会を持つことができました。

写真の右端が「鵜島カフェ」

お話のなかで、テレビ番組のロケで所さんが来た(ダーツの旅、らしい)というお話にも驚きだったけれど、さらにびっくりしたのが、鵜島に住む人は「織田(おりた)」さんか「福羅(ふくら)」さんしかいない、という事実。(以前は他姓の家も2軒ほどあった)

能島が落城し、村上水軍が去ったあと、鵜島は一度無人島になってしまいます。近世初期に「佐島」から人々が入植し、再び人が住む島になったといいます。

ところで、島の織田家に伝わる古文書によると、その先祖は明智光秀によって滅ぼされた織田家の子孫、なのだとか。

畑で会った女性の親御さんのお話では、方言の調査に研究者が島を訪れたことがあり、彼女の言葉は「標準語のイントネーション」だといわれた、と教えてくれました。子どものころ、他の島で言葉についてからかわれたこともあるとか。

それは、祖先が尾張から持ち込んだ言葉の名残、ということ……?

「へぇ~」の連続で、トドメのように、私の心にすっかり鵜島を焼き付けてしまったカフェを出ると、前の海に、ぷかぷかと浮かぶ鳥はアヒル。

どこまでも、印象深い島だったのでした。

宮下港近くの小島には石碑があり、福嶋神社が祀られている。以前は美しい松の木が立っていた。
「え?」と何度聞いても「アヒルよ」という。なぜ海にアヒル?? 可愛らしいから、まあいっか。

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