瀬戸内/しまなみの津々浦々には、地元に住む人間でさえも、ときに癒され、あるいは驚かされ、ときに心揺さぶられ、あるいは静かに感動させられる何かがある。水軍の海城跡「能島」を、陸地からは最も接近して見られる「鵜島」は、その絶景、歴史や文化に驚きが満ちる島。
【Enjoy Island Hopping in the Setouchi Inland Sea!】
Shimanami Kaido is the 60km highway between Iimabari in Ehime and Onomichi in Hiroshima. It has 9 bridges over the sea and very popular among the world especially for cyclists. You can travel as a bird fly over the sea enjoying islnad hopping. I live in Imabari city, and I am the one who is soothed, amazed, and moved by the cenery of Shimanami.
This post features two islands Noshima and Ushima. Noshima was a pirate fortress. Strong tidal currents around the island protected it from enemies. Ushima is the island where you can see Noshima very closely.
水軍の海城「能島」は急流に守られた神の島
瀬戸内海には無数の島があるが、伯方島から「船折瀬戸」方面を望むと、他の島々とは”異彩を放つ”島が見えてくる。
「船折」の名のとおり、300メートルほどの狭い海峡を約8ノット(時速約15km)の潮流が流れる海の難所に、遠目にも古くから人の手がかけられていることが見て取れる、日本庭園の築島のような小島が浮かんでいるのだ。
この島は、村上水軍のかつての海城である「能島(のしま)城跡」(国指定史跡)。島への定期的な船便はなく、島を覆う桜があったころは、満開の時期に、2日間のみ船便がシャトル運航されていたらしい。
能島のソメイヨシノが伐採されたのは2022年(令和2年)のこと。能島では、雨水による土砂の流出、航跡波による侵食、そして桜の根や落葉による影響で島自体の破壊が進んでいることが懸念されてきた。平成31年、令和2年の豪雨では、その影響で大規模な地すべりが起き、令和4年度から実施された「史跡能島城跡保存活用整備工事」の一環として、昭和6年(1931年)に植えられ観光の名物ともなった桜は島から取り除かれた。
この保存活用整備工事では、休憩所として「復元的建物」、案内板の設置、発掘調査で見つかった建物跡、鍛冶遺構などの場所に平面表示をするなど、当時の能島城の様子がわかる展示解説がなされる計画だというから楽しみだ。
能島は「神の島」、という記述を以前にどこかで見かけたことがあり、それはその神々しい姿からかと思っていたのだが、違うらしい。
能島は三方が神によって守られた島であるという
出典:『宮の窪地誌』(宮窪町教育委員会、1985年)
「神」とは強い潮流のことで、東は能島と鵜島の間に荒神瀬戸、西には能島と宮窪の間に宮窪瀬戸、南にはコウノ瀬、そして北側には船折瀬戸がある、ということだ。(出典:『宮の窪地誌』)
14世紀~16世紀後半まで「城」として利用され、周囲720mしかない島には、いくつもの郭が築かれて、居住の跡も見られるとか。能島はきっと、大型船のような姿だったにちがいない。(島全体に、みっちりと建物がのっかっているイメージ)
人の営み豊かだった昔の能島は、神々に守られて、さぞ活気にあふれていたことだろう。
能島にいちばん近い島 鵜島へ
じつは、伯方島の尾浦港からふらっと船に乗りこんだとき、私と夫は桜咲く能島へ渡る気でいた(2019年のこと)。しかし、能島には前述のとおり定期的な船便がはなく、到着地の予備知識ゼロの私たちが乗った船は、尾浦港から10分で「鵜島」へと到着した。
■鵜島へのアクセス:伯方島・尾浦港~鵜島~宮窪をむすぶ船便がある。料金や時刻表については今治市HPにありship_hakata-oshima.pdf (city.imabari.ehime.jp)
上陸した島には、船着き場の近くに外壁がビビッドなピンク色のカフェがある以外は、昔ながらの低い軒が続き、鎮守の森や果樹園など愛媛の田舎らしい風景。
後に、このカフェに立ち寄った際に『鵜島風土記』(鵜島歴史民俗研究会編 宮窪町地域活性化推進協議会発行、2015年)をいただいた。こちらを参考に解説すると、鵜島は南北約1.5km、東西約0.8kmで面積約0.76平方キロメートル。島の周囲は4kmほどだが、急な潮流のために、集落のある地域以外は岩礁、崖となっている。
船が着いたのは島の南側で、「家の谷」と呼ばれる集落だ。鵜島には、カフェ以外の商店はない。郵便局、お寺、そして自動販売機も存在しない!
基幹産業は、農業。意外なことに、漁業を生業にする住民は存在しなかったらしい。農船で大島にある畑まで行って農作業をしていた時代もあるとか。
眼前に、絶景と急流に流される観潮船を望む
港から10分弱、集落を抜けて果樹園横の坂道を登れば、もう海への崖に行き当たる。坂道の先を左のほうへ曲がると「へらごら見晴らし場」に着いた。
ここでは、海へ向かって急こう配の山肌を滑るように降りた記憶がある。現在の様子は未確認だが、2019年当時は、斜面を下る階段らしきものはあったが、ほぼ草に飲まれるか崩れていた。勢いよく転がり落ちたりしたら、その先は海で、「荒神瀬戸」の急流がごうごうと流れている。
すべる足元に怯えながらも、斜面をなんとか降りたのは、思わぬ近くに能島が見えたからだ。
神に守られた海の城跡を眼前にして、その景色に圧倒されていると、ほどなく能島に船が近づいてきた。
観潮船は今治の人気観光アクティビティ。
エンジンを使って急流に逆らい……
エンジンを止めて急流に流されているらしい。
船からは「おおっ」とどよめきが。
船のなかでも驚きの体験中だろうが、そんな船を間近で眺めるのもまた、珍しい体験だった。
■潮流体験 能島城跡をめぐる潮流体験については今治市公式ホームページで紹介されている 「能島水軍 潮流体験」(今治市公式ホームページ内)
鵜島と水軍の歴史
「へらごら見晴らし場」から、砂浜があり、小さな集落のある小浜地区へ。こちらからは能島の隣にちょこんとあり、城の出丸があった「鯛崎島(たいざきじま)」がよく見える。
鯛崎島と能島との間には桟橋がかかっていたともいわれ、出丸跡には弁財天がまつられている。こちら側から見られないが、島の縁にはお地蔵様があり、これにまつわる民話は、日本財団「海と日本プロジェクト」においてアニメ化された。(今治市の公式HP→宮窪町の民話「クジラのお礼まいり」のアニメが完成しました | 文化振興課 | 今治市 (city.imabari.ehime.jp))
荒神瀬戸に向かって突き出した「警固鼻」、能島村上水軍の「造船所跡」があり、地名の由来となったともいわれる船奉行小浜源右衛門の屋敷跡には古井戸が。能島城の水汲み場、船かくし場であった名残だ。
警固鼻の案内板によれば、岩礁には桟橋の脚穴と思われるものがあり、船を守るための施設があったと推察される、という。
「三島村上氏」と呼ばれた村上水軍は、能島、来島、因島を拠点に活躍し、海賊であるとともに近隣の荘園の所務や海上警固を担って勢力を伸ばした。来島村上氏が豊臣秀吉の勢力下に入ると分裂。その後、秀吉が出した海賊禁止令で組織は解体した。
鵜島のびっくりネタが連発されるカフェ
港へ帰る道中、畑で作業していた女性が「どこから?」と話しかけてくれた。今治から(旧今治市の意味)と答えると、その女性も今治から週に1回、実家の親御さんのもとに通って来ている、との話だった。
その後、ピンクの「鵜島カフェ」で親御さんとともにいらしていた女性と再会。お店の方含め、地元の方々とお話しする機会を持てた。
テレビ番組のロケで所さんが来た(ダーツの旅、らしい)というお話にも驚いたが、さらにびっくりしたのが、鵜島に住む人は「織田(おりた)」さんか「福羅(ふくら)」さんしかいない、という事実。(以前は他姓の家も2軒ほどあった)
能島が落城し、村上水軍が去ったあと、鵜島は一度無人島になった。近世初期に「佐島」から人々が入植し、再び人が住む島になったらしい。
ところで、島の織田家に伝わる古文書によると、その先祖は明智光秀によって滅ぼされた織田家の子孫、という。
畑で会った女性の親御さんのお話では、方言の調査に研究者が島を訪れたことがあり、彼女の言葉は「標準語のイントネーション」である、といわれのだという。子どものころ、他の島で言葉についてからかわれたこともあるとか。それは、祖先が尾張から持ち込んだ言葉の名残……?
カフェの前の海に、ぷかぷかと浮かぶ鳥はアヒル。二度聞きせざるをえない驚きの事実の数々がさらりと語られる、帰りの船を待つ憩いのひとときだった。
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